(88)【小さな家の小さな本棚③】中村好文『小屋から家へ』~「別荘という贅沢」について考える
今回は「小さな家の小さな本棚」の第3回目です。
取り上げるのは建築家・中村好文氏の作品集『小屋から家へ』(中村好文著、TOTO出版、2013年)(とムック1冊)。
僕の好みに偏ることを承知でいえば「中村好文氏はもっとも趣味の良い別荘を建てる建築家である」と思います。
僕が言う「趣味が良い」とは、「これ見よがしにお金を使ったりせず、本当に必要なものをシンプルな手法で造る」という意味です。
以前も書きましたが、かつては「別荘=金持ちのもの」というイメージがありました。
今でも、「モダンリビング」の別荘特集などを手に取れば、浅間山やら熱海の海、果てはイビザ島の絶景までを独り占めできるゴージャスな別荘を見ることができます。
こういうのを見るにつけ「お金って、あるところにはあるんだなあ」と感心しますが、なんというかあまりに豪奢で広大すぎて現実感がわきません。
聞くところによれば、オプラ・ウィンフリーの別荘には私道に雪が積もらないようにする15億円の装置があったり、マーク・ザッカーバーグのスマートホームはボイスがモーガン・フリーマンだったりするらしいですが、そんなのって必要なの?って話。
でも、潤沢な資金を前提に家のことを夢想するのが楽しいのは事実でしょう。
もし湯水のようにお金が使える身分になったとして(なる予定はない)、どんな別荘がほしいか。
僕にとって、その答えになりそうな別荘の数々が、今回ご紹介する中村氏の作品集「小屋から家へ」にあると言えます。
前置きが長くなりましたが、中身を紹介していきましょう。
裏面の帯に掲載されているのが、中軽井沢に建てられたという「Peak Hut」(79ページ~)。
hutは英語で「小屋」の意味。
「小屋」というには少々大きめではありますが、「別荘」という手垢のついた言葉で想像するような豪華な印象はありません。
中村氏は最初に現地を訪れたとき「ここには大きな別荘を建てるべきではない!」(90ページ)と直感したそうです。
結果、できた建物の広さは16坪で、2階もありません。
キッチンや水回り、寝る場所など、「別荘」に求められる必要最低限な要素だけのシンプルな構成ですが、古くて汚くてムダに広い築古の民家を持て余す僕的には心底うらやましい空間です。
内装も簡素ながら木材の質感が感じられる作りで好感が持てます。
きっと木の良い香りがするんだろうなあ。
ほぼ同じ広さ(15坪)の「Serigasawa Hut」(65ページ~)も素晴らしいです。
1988年に建てられ、撮影時点ですでに築25年を数えている建物ですが、オーナーが代わった際に大規模な修繕を施したせいか、古臭い印象は受けません。
なかでも僕が気に入ったのはロフトへと上がるためにしつらえられた螺旋階段。
一時は我が山小屋でも既存の急な階段を撤去して螺旋階段を導入しようかと思ったこともありましたが、予算の都合でかないませんでした。
螺旋階段って昇ってるとワクワクする感じがあると思いませんか。
螺旋階段は「Koiso House」(103ページ~)など、中村氏の建築においては定番となっているようで、こういう遊び心があるのも中村氏の建築の魅力かと思います。
ああ、こんなふうに螺旋階段の上からリビングを見下ろしてみたいものです。
ほかにも、まるで北欧の別荘かと見まごうような「Jin Hut」(4.5坪、55ページ~)など、派手さはなくとも、居心地良さそうな小ぶりな家が詰まっています。
ですが、小ぶりだからといって、贅沢さがないわけではありません。
表紙の帯に選ばれたたった2坪の「Luna Hut」(43ページ~)をごらんください。
まさにhutの言葉にふさわしいスモールハウスです。
小高い山の上にポツンと建ち、夜景を見下ろすロケーション。
奇をてらわない、シンプルな「おうち」のかたちに好感が持てますが、にしても2坪は狭い。
「いったいどういうこと?」と思ったら、なんのことはない、この建物のわきには「Luna House」(183ページ~)と名付けられた本丸があり、そちらはシンプルながらも別荘と呼ぶにふさわしい広さと設備を持っているのでした。
「じゃあさ、この小屋って何なのよ」と問えば、「素晴らしい眺望を愛でるためだけの小屋」(54ページ)なんですって。
なんという贅沢!
そうなのです、やっぱり「別荘って贅沢品」なんです。
「あたりを睥睨するような別荘や、地位や財力を誇示するような別荘」(90ページ)は作りたくないと言う中村氏の仕事ですら、相当な財力がなければ実現できないものです。
『小屋から家へ』はまことに素晴らしい本ですが、その贅沢への意識に少しだけ引っかかりを感じます。
そのへんをはっきりさせるために、もう一冊ご紹介しましょう。
「自然を楽しむ週末別荘傑作選」(世界文化社、2005年)です。
実際に別荘を建てたい人のための本とあってか、大判なサイズ感からも富裕層向けの匂いがプンプンしてきます。
別荘を建てるにあたって実際にかかった費用が記載されているのが興味深い。
このムックでも中村氏の仕事がいくつか紹介されているのですが、その中に「Asama Hut」があります。
付されたキャッチは「粗末感を極めた小さな小屋」。
浅間山麓に建てられた48平米(15坪弱)の別荘で、施主は文芸評論家の加藤典洋氏です。
加藤氏は「みすぼらしい家にしたい」と中村氏に依頼したそうです。
「別荘は最小限の機能を備えるだけでいい」(46ページ)という中村氏の言葉はそのとおりではありますが、同時にこんな立派な建物を「粗末」と形容する意識だけはどうにも気になります。
同じムックの中で、中村氏はこうも書いています。
「簡素や質素という言葉はともかく、粗末という言葉は、とかくマイナスイメージに受け取られますね。なんだか、貧しく、みすぼらしいものだと。
私自身は粗末という言葉は決して嫌いではありません。粗末に耐えられるためには精神がよほど豊かでなければならないと思うからです。宮澤賢治に倣って「粗末でも平気な人、そういう人に私はなりたい」と言いたいぐらい」(56ページ)
このあと、ホテル的なゴージャスな別荘ではないものを目指したいという弁が続くことからもわかるように、氏の発言はバブル的な「別荘」へのアンチテーゼとしての強めの表現であり、本来ネガティブな意味を持つ言葉を肯定的に使い変えようという試みであることは公平を期すために書き記しておきます。
ですが。
いくらなんでも「粗末」はないんじゃないの?と思うわけです。
先ほどの加藤氏の「Asama Hut」は、「総工事費(合計) 1525万円 設計監理料 180万円 土地代金 716万円」(47ページ)かかっているそうです。
もし僕が施主なら口が裂けても「粗末」とか「みそぼらしい」なんて言葉は使えません。
僕にとっては、この「Asama Hut」ですら“湯水のようにお金が使える身分になったとして”とまではいかないものの、一生に一度の買い物、清水の舞台から飛び下りるつもりで発注するものでしょう。
っていうか、「Asama Hut」が「粗末」なら、この日記で紹介している10平米にも満たない我が山小屋は、何と形容すればいいのでしょうか?
リノベーションにはそれなりの費用がかかりましたが、ぜんぶをひっくるめても、先の「Asama Hut」の土地代にすら及びません。
それでも、たとえカッコ付きでも、「粗末」と自称する気になりません。
それどころか、僕だって「別荘」という「贅沢」を享受している身分だと思っています。
床に生えたカビをふき取ったり、祖父のガラクタを粗大ごみに出したりしながら、「別荘とか言ってもぜんぜん優雅じゃねえ」と愚痴るときはあっても「別荘は贅沢品だ」という意識は頭の片隅につねに持っていたいと思うのです。
不動産の話は金銭感覚や価値観のちがい、ひいてはそれを表わす言葉の感覚が浮き彫りになるので難しいですね。
「粗末」なのか「贅沢」なのか……受け手がどう感じるかはともかく、この本で紹介されている建物がどれも趣味が良いものだということについては太鼓判を押します。
ぜひ一読を薦めます。