(142)1970-2020~山小屋の母屋の半世紀を振り返る
気がつけばゴールデンウィークですが、今年ばかりは何ら変わらない毎日が過ぎていきます。
コロナ禍で長時間の在宅を余儀なくされると、部屋でも片付けて少しでも住空間を快適にしようと思ったりします。
そんな折、マンションの書類を整理するついでに、母から預かった山小屋の古い書類をあらためて眺めてみたのですが、これがなかなか興味深いものでした。
今回は、この書類をもとに山小屋の来歴について書こうと思います。
といっても、このブログで主に取り上げている離れの小屋のことではなく、半世紀前に建てられた母屋が話題の中心になります。
土地の売買契約や住宅ローンの話も出てきますが、何分昔のことゆえ実用的な情報はほとんどありませんので悪しからず。
さて、そもそもの事の発端は、クリスチャンだった祖母が、野外ミサでこの地を訪れたこと。
なんとなく母親から話は聞いていましたが、今回、書類の中に祖母のメモ書きが遺されているのを見つけました。
家
ミサ
土地買う
なんと簡潔でわかりやすいメモ!
こうしてブログなどを書いていると微に入り細に入りつまらぬ些事を書き連ねてしまうものですが、本来、大事な情報とは「来た、見た、勝った」式のシンプルな文章で事足るものなのかもしれません。
このメモ書きのとおり、祖母は祖父を動かし、土地を買わせ、住宅ローンを組ませ、山小屋を建てさせました。
祖父は大層口が悪く、男尊女卑を地で行く人間でしたが、結婚を機にクリスチャンに改宗したり、求めに応じるままに山の家を建てたりと、なんだかんだ祖母の言うなりだったような気もいたします。
記録によれば、土地の購入は昭和45年9月12日。
土地売買契約書に書かれた日付です。
今や立派な中年である僕が生まれるよりも前。
手付金60,000円と残金586,000円をあわせて、646,000円を払った領収証が残っています。
これが高いのか安いのか、今となってはさっぱりわかりません。
ただ、別荘地としてのステータスが確立していたエリアにくらべれば、かなり安かったのはまちがいないようです。
親戚からは「あんなところに家を建てるなんて」と大層バカにされたんだとか。
いつの時代にもつまらないステータスに拘泥する人間はいるものです。
さて、土地を買ったら次は建物。
最初に作ってもらったと思しき図面がこちら。
六畳と四畳半の和室と、洋間にデッキ。
別荘としてはちょうどいいサイズ感ですし、なにより洋間に斜めに配置された対面式と思われるキッチン(「カウンタ」と書かれている)が素敵です。
そばにダイニングテーブルを置けば、話しながら料理も楽しくできそう。
半世紀前の計画としては実にモダンでグッドアイデアに見えますが、残念ながら、この案は採用されませんでした。
続いては、こちらの図面です。
ぐっと本格的になりました。
ちょっと見にくいのですが、斜めの対面キッチンはオーソドックスな壁付けキッチンになってしまいました。
水まわりをゆったりめに設計したせいなのか、お風呂のスペース分だけ建物から飛び出るように配置されています。
このプランの良いところはデッキが広く掃き出し窓がたくさん設置してあるところ。
ごらんのとおり、横から見ると、壁はほとんど窓ばかりです。
せっかく自然の多いところですから、外の景色をゆっくり眺められるようにという配慮だったのでしょうか。
これまた残念ながら、この案も採用されず、プランはさらに変更されました。
先の図面と南北が逆になっているのでくらべにくいですね。
図面を逆さにしてみましょう。
キッチンは図面の左、日当たりの悪い西側に追いやられました。
右側にあった洋間は姿を消し、何の変哲もない八畳の和室になり、床の間と押入れが配置されました。
つまらん。
なんでこうなっちゃったかな……さっきの案のほうが絶対よかったのに。
祖父も祖母も他界した今となっては、その理由を知る由もありませんが、やっぱり予算でしょうかね。
最初の案にあった斜めのカウンターや、第二案にあった広めのデッキと窓など、お金が余計にかかるのは目に見えているので、現実的な予算との兼ね合いで没になったのではないでしょうか。
ともあれ、これをベースに祖父の知り合いの大工さん(自称“中野のスーパーマン”)が山小屋を建てることになりました。
母親の話を聞くかぎり、完成したのは昭和49年頃。
土地の購入から4年ほどが経過した後でした。
今回、完成時の写真を探したのですが、見つけることができず。
気になる建築費用についても記録がなくてわかりません。
ただ、住宅ローンの残額を繰り上げ返済した際の「ローン完済のお礼」なる書類が残っています。
これによれば、昭和48年10月20日にローンを組んだことは確かです。
しかし、350万円は母屋の建築費用としてはさすがに安すぎます。
建築費用の一部なのか、はたまた、増築を見据えた借り入れか、さだかではありません。
このローンを返し終わったのが、昭和56年7月20日。
ちなみに、先のお礼の文章には、積立預金を勧めるこんな一文が記されています。
日本もまだまだ上り調子で、利息がバンバンついた時代でした。
ローン完済の3年後に撮られた写真がこちらです。
この写真の裏面を見ると、1984年(昭和59年)とメモ書きされています。
この頃には、相次ぐ増築によって家はだいぶ大きくなっていました。
手前に見える部分は増築ですし、奥に見える二階も増築です。
先の図面に書き加えるとこんな感じ。
僕の幼い記憶に残っているのがこの写真の頃の山小屋なので、建築当時とどう変わったか、記憶でくらべることはできません。
ちなみに、このブログで取り上げている離れは、先の写真の左側に写り込んでいる電柱のわきに建てられることになります。
右に写っている電柱ですね。
先の写真の撮影からおよそ5年後、1990年くらいに離れが建てられたと思われます。
離れの工事前の姿については、以前も書きました。
書庫とは名ばかりの小屋は、数年で骨董と古本に埋め尽くされ、祖父の死後はそのまま放置されていました。
古本と骨董を収集するために離れまで建てた祖父にはあきれる気持ちもありますが、今となってはこの小屋のおかげでうちのマンションにも付加価値が生まれていることを考えると、感謝しなければならないのかもしれません。
母屋はムダに広いので、離れのようにきれいにリノベーションするのは容易ではなく、これまでは修理とメンテナンスだけで精一杯でした。
この10年で費やしてきたお金については、日刊Sumaiの連載をどうぞ。
今後は母屋のインテリアにも少しずつ手を入れていきたいな、と思っています。
その模様もいずれご紹介します。