(743)【note再録】マンション大家が『ジェントリフィケーションの功罪』を読んで考えたこと
今回は、noteからの再録記事をお届けします。
【note】マンション大家が『ジェントリフィケーションの功罪』を読んで考えたこと
以下、noteに掲載した記事とまったく同じ内容ですので、お好きなほうでお読みいただければと思います。
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マンション大家が『ジェントリフィケーションの功罪』を読んで考えたこと
今回もジェントリフィケーションの話である。
僕がこの言葉を初めて知ったのは『都市殺し』を読んだときのことだ。
【note】『都市殺し』を読んで不動産と資本主義について考えた
この本の解説を書いている森千香子氏によれば、「一般に、ジェントリフィケーションはある地区の建造環境の更新にともない住民構成の変化が生じることを指し、「地区の富裕化/高級化」とも訳される」(309ページ)言葉である。
ジェントリフィケーションは「貧乏人を追い出して街を再開発し、そこに金持ちが集まってくる」という構図を取ることが多いため、批判の対象になりがちである。
しかし、ジェントリフィケーションを促進しようとする行政や大企業からすれば、再開発によって地域の価値が上がること(「高級化」)は望むところであり、そもそも批判されるいわれなどないと考えてもおかしくはない。
個人的には、再開発にあまり良い印象を抱くことはないのであるが、そもそも再開発自体を「悪」と捉えたいとは思わないし、批判ばかりしていてもなかなか建設的な議論はできないのではないか、と思うようになった。
そんななか、興味を引かれたのが本書であった。

『ジェントリフィケーションの功罪 ゆるやかな都市成長のためのケーススタディ』(服部圭郎編著、阿部大輔、黒瀬武史、石原凌河、岩淵丈和著、学芸出版社、2026年)である。
ジェントリフィケーションを批判的に論じる傾向の中で、その「功」の側面にも目を向けようとしているのだと思い、手に取ることにした。
あらかじめ断っておくと、その意味においてはやや期待外れに近い内容だったのだが、他方で思わぬ収穫があった。ひとことで「ジェントリフィケーション」と言っても、その現象の現れ方は国や地域によってさまざまであり、非常に多様であることが豊富な実例で理解できたことである。
■ジェントリフィケーションの核には「追い出し」がある
「はじめに」によれば、「ジェントリフィケーションは、ある地区に住んでいる人たちの階級構成が低所得者から高所得者へと置き換わる現象」(21ページ)だと定義されている。
大事なのは、「狭義では、このプロセスにおいて低所得者の住民が意図せず、その場所の移転を余儀なくされた場合(ディスプレイスメント)をジェントリフィケーションといい、ディスプレイスメントが特にない場合は、それをジェントリフィケーションと捉えないことが一般的」(21ページ)だとしている点である。
つまり、「ディスプレイスメント」こそがジェントリフィケーションの核となる部分だということだ。「ディスプレイスメント」は、続く第一章で説明されているとおり、「追い出し」と訳される。
「より高い購買力(経済力)を有する社会集団(階層)の地区への流入は、不動産の修復を促進し、住宅価格(地価)の上昇を招き、経済的・社会的に比較的劣位にある多くの住民や店舗の家賃支払いを困難にさせ、結果的に地区外への移転を余儀なくさせていく。これが従前の地区の住民や店舗のディスプレイスメント(追い出し)である」(40ページ)。
なんとも難解に感じるが「開発で経済的な弱者が追い出される事態」こそがジェントリフィケーションの核心なのだと理解すればいいのだと思う。
■「典型的」なジェントリフィケーションは日本にあてはまらない?
さて、定義に関わる問題として押さえておきたいのが、イギリスで生まれてアメリカで発展した概念であるジェントリフィケーションが、「都市性の回復、すなわち郊外の住宅地にはない都市空間の魅力の再生こそが都市再生製作の原点にある」(43ページ)という考え方と密接に結びついている点である。
アメリカでは自動車を中心とした郊外での生活から、1990年ごろには「都心回帰現象が顕在化」(60ページ)し、ジェントリフィケーションが問題化してくる。都心がスラム化していたところに再開発がおこなわれ、地域の価値が改善・上昇し、それまで暮らしていた人々が追い出されていく――これがアメリカにおける「典型的」なジェントリフィケーションなのである。
本書の第二章では、「ケーススタディにみるジェントリフィケーションの諸相」と題して、さまざまな都市の事例が取り上げられるのだが、アメリカの4都市(ニューヨーク、アトランタ、シアトル、デンバー)はおおむねこれにあてはまる。ドイツのライプツィヒも同様である。
しかし、このようなジェントリフィケーションは日本に暮らしているとピンとこない。著者の一人、服部が第四章で「日本ではこの30年間経済が低迷していたこともあり、家賃が高騰し、人々の生活を圧迫するようなことがなかった。(中略)現状では、家賃が高くなり、その家賃が払えなくなって追い出されるといったことは、日本の都市ではあまりみられていない」(281ページ)と書いているとおり、ほとんどの日本人は家賃高騰による追い出しという事態に直面してないからである。最近は賃貸の家賃が徐々に上昇しつつあるが、それでも欧米とくらべれば穏やかといってよい。
僕は冒頭に挙げた『都市殺し』を読み進めるのにかなり苦労したのだが、それも具体的な事例に共感しづらかったことが理由かもしれないと思い当たった。そもそも、日本は(不動産的には)つねに「都心>郊外」という価値観が優勢であり続けてきたから欧米とは根本的な事情が異なる。
さらに、大家業を営んでいる身から付け加えさせてもらえば、日本には借主を強固に守る「借地借家法」があるうえに、人口が減少傾向にあるため賃貸物件が余っている状況がある。「今、住んでいる入居者をそう簡単には追い出せない」し、「追い出したところで新しい入居者により高く物件を貸せるかもわからない」以上、欧米で見られるジェントリフィケーションなどそうそう起こらないというわけである。賃貸マンションを営む大家としては複雑な気持ちもあるが、世界的に見て日本は賃貸住宅が借りやすい状況にあるのだと思う。
■京都と観光ジェントリフィケーション
では、我々にとって身近な事例として感じられるジェントリフィケーションとは何か?
まず挙げられるのが「観光ジェントリフィケーション(tourism gentrification)」だ。これは「オーバーツーリズム」として知られる現象と重なる部分が多い。
「観光に関わる施設や高級店が増加して富裕層の来往が増え、その結果、賃料が上昇し、低所得者層の追い出しや地域住民の生活を支えてきた食料品店や小売店などの近隣商店の減少が進む現象を指す」(51ページ)。
本書でその代表として取り上げられているのが「京都」である。

「京都」では、増加する一方の観光客に対応するために急増した「簡易宿所」が地価の高騰を招いた結果、「伝統的なコミュニティが破壊される現象」(135ページ)が起きているという。
この現象は「従来であればその土地に将来的に居住したり商いを営んだりするはずの潜在的な住民の活動の場が失われ」(135ページ)るという事態を招く。「子育て世代の流出やオフィス床の不足」(136ページ)は「京都市に住んで働く人が消えていく」(136ページ)ことを意味するのだから、非常に深刻な事態である。旅行者として京都をたびたび訪れている身としては、自分の旅がその片棒を担いでいると言われたようで耳が痛い。
さらに、僕のように京都の外に住む人間にとっても無視できないのが「観光活動による場所の商品化」(234ページ)という問題である。「豊かな市民生活が営まれているがゆえに従来から観光客を惹きつけていたはずの場所・空間・エリアそのものが観光体験を消費する「商品」になっていく」(238ページ)のだ。
その典型例が錦市場である。

近年、「高いインバウンド需要を受けて、市場内の店舗構成が大きく変化」(239ページ)したのだという。具体的には生鮮食品を扱う店舗が減少する一方、「かつては数店舗しか存在しなかった飲食店が近年急速に増加」(239ページ)した。伝統的な市場機能を失い、「錦市場は今や食べ歩きストリート」(240ページ)と化したのだった。

これはまさに僕自身がひさしぶりに錦市場を歩いて感じたことであった。かつては京都の人々の台所をのぞくような楽しみがあった場所は、神戸牛の串焼きなどを高額に売りさばく店舗に侵食され、なんとも居心地の悪い場所となっていた。個人的にはもう訪れることはないだろうと思う。
こんな記事も見つけた。
【FNNプライムオンライン】「時代の流れで仕方がない」老舗店が相次ぎ閉店…京都「錦市場」と大阪「黒門市場」 地元客か外国人観光客か…揺れる「関西の老舗市場」
80年近く続いてきた蒲鉾店は外国人観光客の好みに合わないということで売り上げが下がり、後継者問題も相まって閉店を決めた。創業160年の雑穀店も食べ歩きに向かないために閉店。錦市場が大きく変わりつつあることを如実に示している。
この問題の致命的なところは、短期的に見れば「神戸ビーフを売るビジネス」は儲かるかもしれないが、長期的に見れば京都の街が保持してきた伝統的な価値を毀損してしまい、やがては魅力のない空虚な街に変えてしまう怖れがあることだ。そうなってしまえば、観光客だって離れてしまうだろう。
■下北沢とコマーシャル・ジェントリフィケーション
この構図が見られるのは京都のような「ザ・観光地」だけではない。東京で人が集まる人気の街ならば、いたるところで見出すことができる。
「低所得者向けの商品を提供する店舗が、中流階級以上の消費者向けの店舗に置き換えられるプロセスを指す」(50ページ)と定義される「コマーシャル(商業)・ジェントリフィケーション(commercial gentrification)」の問題である。
具体例として挙げられるのは下北沢だ。

服部によれば下北沢は「ニューヨークのグリニッチ・ビレッジ、ロンドンのカムデン、パリのモンマルトルなどと同様に、もう地名自体に言霊が宿っている」(138ページ)街なのであるが、その背景には「圧倒的な量」「多種多様な」店舗があり、その多くが「サブカルチャー的要素」を共有しているという特徴がある。
そして、当然ながら、それらの多くはチェーン店ではなく個店なのである。「均質なサービス」の提供を旨とするチェーン店に対し、「強力な個性」を有する個店の数々が下北沢の都市空間に強烈なアイデンティティをかたちづくってきた。

しかし、この十年の再開発がそんな下北沢を大きく変えた。
その代表が、

小田急線の地下化に伴って生まれた商業施設「リロード」であり、

井の頭線の高架下につくられた「ミカン下北」である。
これらの商業施設は下北沢に「コマーシャル・ジェントリフィケーション」をもたらしたのだという。
服部は下北沢にある店舗を①「下北沢にしかない個店」②「東京以外にも姉妹店がある国内チェーン店」③「国際的なチェーン店」の三項目に分類したうえで(145ページ)、徐々に個店が減り、国内チェーンの割合が増えていると分析している。
この背景にあるのは「企業が経営するチェーン店等は高家賃でも負担するという前提による地主の家賃値上げ」(146ページ)なのだった。かくして家賃上昇に耐えられるチェーン店が個店を駆逐してしまう事態が発生した。
「この状況は大変皮肉である。というのは、個店こそが下北沢のオーセンティシティをつくりあげ、それが街の魅力の源泉になっているのに、それを排除している状況にあるからだ」(147ページ)。
まさに「ジェントリフィケーションによって、今、下北沢の魅力の源泉であったアイデンティティは失われつつあるのだ」(149ページ)。構造としては先ほどの京都の観光ジェントリフィケーションと同じである。
以上の分析から、服部は下北沢が「どこにでもあるような凡庸な街」(151ページ)に変貌してしまうことを危惧している。
たしかに、同じく人気の街と言われることの多い自由が丘・武蔵小杉・二子玉川などを見ていても再開発でどこも似たようなチェーン店が軒を連ねる街に変わりつつある印象を受ける。
これまで「郊外の街はどこにいっても同じようなショッピングモールやチェーン店ばかりが立ち並んで面白味がないけど、都心の街はそれぞれに唯一無二の個性があってうんぬん」という言説が盛んに語られていたが、そういう図式自体が崩れつつあるのかもしれない。
それがコマーシャル・ジェントリフィケーションなのだとすれば、今の日本を考えるうえでかなり重要な概念なのではないかと思う。
■「功罪」と言いながら「罪」ばかりが強調されている
以上、個人的な意見を交えながら、本書の内容をまとめてみた。このほかにも「復興ジェントリフィケーション」など、今回は割愛したが興味深い事例も取り上げられているので、関心がある方はぜひお読みいただきたい。

で、「功罪」の話である。
上記のまとめは、「罪」の部分ばかりに目を奪われているように思われるだろうが、それは僕の読解力の問題というよりは、本書が『ジェントリフィケーションの功罪』と題しながらも、その実は「罪」の問題ばかりに力点が置かれているからなのである。
第二章での個々の分析においては、現状分析と問題点の指摘が大半で、開発がもたらした「功」への言及はほんのわずかである。
また、第三章では「「功」と「罪」を検証する」として「罪への着目」と「功への着目」の両論を併記する形式を取っているのだが、その内容はアンバランスである。
たとえば、服部は「功罪」それぞれで一項目ずつ執筆しているのだが、「罪への着目」の「住民の追い出し(ディスプレイスメント)」が10ページに渡っているのに対し、「功への着目」の「治安、自治体財政等の改善」はたったの3ページしかない。これではいちおう両論併記しましたというエクスキューズにしか見えない。内容的にも、前者には熱のこもった考察があるが、後者にはそれが感じられずほとんど一般論にとどまっている。
ジェントリフィケーションに潜むさまざまな問題を指摘するのは有益だが、これではタイトルに偽りがあるのではないか。
■下北沢の事例こそ「功」だと思うのだが……
さらに言えば、この本の分析は精緻で興味深いのであるが、生活者としての実感や商売(もっといえば金)をめぐるリアリティへの想像力に欠けている。
たとえば、先ほど「コマーシャル・ジェントリフィケーション」の一例として取り上げた下北沢についてである。今回の読書で興味が湧いてきたので、20数年ぶりにこの街を訪れてみることにしたが、本書の分析とはだいぶ異なる印象を抱いた。

著者が「コマーシャル・ジェントリフィケーション」だと指摘する「リロード」や「下北ミカン」を実際に歩いて感じたことは、「思ったよりもまともな再開発じゃないか」という印象である。
最近の再開発は、既存の街並みを更地にしてデカいハコ作って、下は商業施設で上はオフィスかマンションみたいなのが定番なのに、下北沢はそれをしていない。他を威圧するような高層ビルはなく、低層なヒューマンスケールの建物が続いている。これだけで感じがいい。
調べてみるとこんな記事が見つかった。
【SmartNews】【ひらめく一冊】下北沢はなぜ“選ばれる街”になったのか――タワマンに頼らない再開発の可能性
これによれば「このエリアは地下に線路が通っていることもあり、地上の建物には重量制限などの制約があった。つまり、一般的な再開発のように収益性の高い高層ビルを建設することはそもそも困難な場所だったのだ」そうだ。下北沢固有の事情があったのは事業者としては災難だったのだろうが、結果的には街づくりにおいてプラスに作用したと思う。
もちろんできたものにケチをつけるのは簡単だ。

「リロード」の整ったモダンな佇まいは雑多な下北沢よりは代官山あたりを想起させるし、お高い雰囲気と商品は庶民には近寄りがたいだろう。とても普段使いの店ではない。

一方、「下北ミカン」は、今っぽいエスニックな飲み屋をバランスよく配し、疑似屋台村のような雰囲気を演出しているのが鼻につくといえば、そういえなくもない。近所の居酒屋などに与える影響もないとはいえないだろう。
しかし、である。
「リロード」は低層で周囲の街並みから浮いているわけでもないし、「下北ミカン」だって高架下の再利用と考えれば悪くない。規模もそこまで大きくはないし、下北沢の個性を殺すほどの脅威になるのかといえば疑問である。

何より、小田急は「リロード」の反対側、つまり世田谷代田方面に「ボーナス・トラック」という、よりマニアックな下北っぽい空間をちゃんと設けている。クセの強い本屋や発酵食品専門店など、あまり儲かる雰囲気も感じられないが、こういう店舗が商いできる度量の広さはもっと評価されていいはずだ。

施設と施設の間には随所に緑を残し、いわゆる「ウォーカブル」な空間づくりをしていて、再開発としてはかなり好印象を抱けるものだった。実際、僕が訪れたのは平日だったにもかかわらず、観光客や子ども連れ、老人などさまざまな人々でなかなかの賑わいを見せていた。
前掲のスマートニュースの記事では、開発を担当した小田急電鉄まちづくり事業本部の向井隆昭の考えが次のようにまとめられている。
「(*高層化できないという)建築制限のある中でも、街の個性を生かした開発を行うことで、長期的には街の価値を高め、持続可能性のあるまちづくりにつながる」という考え方である。開発側の言うことをそのままうのみにはできないが、できたものと大きな矛盾はないのではないか。

線路跡の再利用といえば、「代官山ログロード」や「自由が丘トレインチ」などが思い浮かぶが、どちらも閑散としていてまったくうまくいっていないことを考えれば、小田急の開発手腕は大したものである。「ヤシの木よりも高い建物は作るな」という言葉を引きながらゴリゴリとビルを建てまくる東急の百倍はまともだ。
ここで、話は先ほどの「観光ジェントリフィケーション」と「コマーシャル・ジェントリフィケーション」の話に戻る。
京都の錦市場で神戸牛の串焼きが売られているのを喜ぶ地元住民は皆無だろう。だが、下北沢の再開発はどうだろうか。

「リロード」や「下北ミカン」が「エリアの高級化」に加担している側面は否めないが、地元住民に歓迎されていないかといえば、そうは思えない。個店を利用しにくいファミリー層などを中心に、喜ぶ住民は一定数いるはずだ。散歩道、公園としての価値なども含んだ上で、再開発が歓迎されている側面も無視できない。
基本的に利益の最大化を追求するのが本分の大企業が、ここまで地元に寄り添った再開発をおこなったことも、もっと評価していいはずである。
本書の「個店か国内チェーンか国際的なチェーンか」という分類による分析はまちがっていないし示唆には富んでいるが、下北沢の再開発を「コマーシャル・ジェントリフィケーション」として否定的に評価しすぎているのは『ジェントリフィケーションの功罪』というタイトルにそぐわないとしか思えない。
ていうか、下北沢が成功例じゃないなら、成功した再開発なんてあるのか?それとも、僕の知る再開発がどれも低レベルすぎるだけなのか?
■不動産オーナーはそんなに悪者ですか?
特に違和感を抱いたのが「レディ・ジェーン」の閉店についての描写である。
「レディ・ジェーン」は半世紀の歴史を持ち、多くの著名人がつどった下北沢を象徴するようなジャズ・バーだったそうだが、オーナーが借地権者から地主に代替わりしたため賃貸契約を更新できず、閉店することになったそうだ。本書のあとがきには「レディ・ジェーン」の事例を嘆いたあとに、こう書かれている。
「街の貴重な資産を守る、という観点が、その土地の不動産的な価値を高めることよりも重要なのではないか、と考える視座が求められるのではないだろうか。(中略)金銭で測れない都市の豊饒さの価値を広く人々が共有すること、そしてそれらを守りたいという気持ちが、ジェントリフィケーションを抑制する政策を遂行させる原動力になるのではないか」(299ページ)。
言いたいことはわかる。たぶん正しい。
が、あまりにもきれいごとに過ぎないか。
賃貸マンションを経営する大家としては、代替わりで「レディ・ジェーン」との契約を打ち切った地主の気持ちが痛いほどわかる。下北沢だけでなく、世田谷区の地価は年々上がる一方で固定資産税だって高くなる。地主にとって土地は飯の種だから、そこから上がる利益を最大化することが商売としての根幹なのである。「文化なんて言うなら、カネをくれよ」と地主は言いたかったのではないか。
なんて思っていたら、著者の服部のnoteで「レディ・ジェーン」の店主のこんな言葉が紹介されていた。
「(新しい)オーナーのような街の価値も分からず、金の亡者のような奴と話をするというだけで不快なので、もう店をするのは辞めた」(服部圭郎「下北沢のジャズ・バー『レディ・ジェーン』の閉店からみる今、起きている東京のジェントリフィケーション」より引用)
お、おう……。
50年間テナントを貸して、違法に立ち退きさせたわけでもなく、この言われよう。地主に同情してしまう自分は冷酷な人間なのか。
ジェントリフィケーションは社会問題だし、文化の喪失を招くものだとは思うが、個々のオーナーや地主を責めてどうするんだよ、と言いたい。
悪いのは「限られた土地から最大限の利益を得ること」を強いてくる資本主義のシステムと、何の恥ずかしげもなくそれに乗っかる大企業と、異常なまでの地価高騰に手を打たず、追い出される文化に対して何のセーフティネットも設けない行政なんじゃないか。
本書では、福岡の「リノベーションミュージアム冷泉荘」を手がける不動産管理会社の社長、吉岡勝己氏の言葉を紹介している。
「イメージも悪く、防犯上でも問題があった地区の集合住宅を、一生懸命、その価値を高め、それと同時に周辺イメージをよくすることに成功したら、ジェントリフィケーションだと言われる。そして、それはよくないことだと言われて、驚きました」(298ページ)
この言葉を本書に引用したこと自体は評価したいが、その中身をきちんと論評せず、背景を掘り下げようともしないのはなぜなのか。その不動産的なリアリティ(稼がないと建物も維持できないし、相続税だって払えないんだぜ)に正面から向き合う必要はないのか。それができなくてジェントリフィケーションを抑えるなんてことができるのか。
思わず熱くなってしまったが、自分も古ぼけて家賃が約9万円まで下がっていたマンションにリフォームをはじめとした企業努力を注ぎ込んで約12万円で貸せるまでに立て直してきた。

軽くマンションの頭金になるくらいの自己資金もつぎ込んでいる。もし「これまで9万円で借りていた人が住めなくなりましたよ。ジェントリフィケーションですね」などと言われてしまったら、と思うといたたまれない気持ちになる。
前述のとおり、日本では借主は借地借家法で過度に守られており、家賃を上げたいからといって大家は簡単に入居者を立ち退かせることはできないのである。「レディ・ジェーン」のような店舗の場合は多少事情が異なるようだが、それにしたってヤクザ雇ってトラック突っ込ませて……的なやり方で立ち退かせたわけじゃないだろう。ひとまず合法にやってんだからさ、言い方があるでしょうが。はっきり言って、非難する相手をまちがえていないか。
最後に、もうひとつ気になることがある。
「金銭で測れない都市の豊饒さの価値を広く人々が共有すること、そしてそれらを守りたいという気持ちが、ジェントリフィケーションを抑制する政策を遂行させる原動力になるのではないか」(299ページ)という先ほどの言葉は、これだけ人々の価値観が多様化(分裂化)した現在、どうやったら実現できると考えているのだろう?
まさか、「資本主義や社会についてもっとちゃんと知識を身に着け、市民どうしで対話を重ねれば共通の価値観が醸成できる」なんて思っているのか。
僕もこういう「価値の共有」についてはたびたび考えているが、その実現は左派的な多様性の共存とはむしろ真逆で、保守的な共同体の復興を想起させる。これについては、デリケートな問題なので、いずれ別の機会を設けて考えたいが、まあなんとも難しい。

いろいろ文句を言ったが、さまざまな事例からジェントリフィケーションの多様性を示してくれるという意味で、非常に価値のある本だと思う。街や都市をめぐる問題を考える入口になるような本でもある。都市や街について考えたい人ならば、僕のように真剣に読むことができるだろう。あなたは、この本を読んでどう思うだろうか。


















